自分の行動に不要な制限をつけると
生き方が窮屈になる気がします。
その考え方は言葉に現るものです。
例えば「~であるべき」などの言葉は
自分で自分の首をしめるように自分の発想や行動に影響しました。
Contents
生き方は自由
「~じゃなくてもいいかも」
その言葉は
「~であるべき」
の対局にある言葉です。
この言葉を他人から聞いたらどう感じるでしょう?
まず
「~であるべき」
と他人に言われたとすると
相手による差はあるものの
思い浮かぶイメージは
「窮屈」
「正論」
「決めつけ」
「厳格」
「強制」
「押しつけ」などです。
対して
「~じゃなくてもいいかも」
と言われたら、どんなイメージをするか?
「自由」
「選択」
「余裕」
「優しさ」
「広がり」
「解放」などでした。
それらの言葉を
他人に言われたと仮定してのイメージでしたが
それらの言葉を
自分が自分に使っていたらどうでしょう?
”言葉”と”生き方”の関係は密接です。
「~であるべき」的な生き方があります。
「~じゃなくてもいいかも」的な生き方もあります。
生き方は自分で選択可能です。
僕自身は
「~じゃなくてもいいかも」
の方が好きです。
その理由は言葉の元になる想いにあります。
何でそう思うのだろう?
「~であるべき」の元になる想いに垣間見れるのは
「これが正しい!」
「こうじゃないとでダメ!」
という思い込みです。
多くの場合、そうじゃなくても問題ないはずなのに・・・。
その観念は幼少期に条件付きの愛され方で
身についたのかもしれません。
親を喜ばすには
”こうあらねばならない”
”この条件を満たされた時には愛される”
そんな生育環境がが生んだ観念だと思います。
その観念の出どころはどうあれ
「~であるべき」生き方は
正しい自分と間違った他者に分断し
自分の行動も必要以上に制限しかねません。
「~であるべき」生き方を選択することを
意識的にしているのであれば
それはそれで良いと思います。
しかし、その選択が無意識だとしたら
とてももったいない気がするのです。
生き方は人それぞれ
「~であるべき」でも
「~じゃなくてもいいかも」でも良いと思います。
大切なのは、自分の意思で選んでいるか
否かなのではないでしょうか?
じゃあどうするの?
”生き方を変える”というと大げさに感じてしまいます。
そんな大それた決断をするより
いままで無意識に思い込んでいた
「~であるべき」に気付いたら
「~じゃなくてもいいかも」を選択するとどうなるのかを
イメージしてみることは簡単です。
多分「~じゃなくてもいいかも」を選択しても
何の問題ないと感じると思います。
どちらでも問題ないと感じたら
自由な選択が可能です。
そんな小さな変化が
人生の自由を大きく広げてくれたら
楽しと思います。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。